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文化

ミス・タヒチ

仏領ポリネシアで「ミス・タヒチ」が正式に選出されるようになったのは1960年からです。

 大人気のミス&ミスター・コンテスト

 ミス&ミスター・コンテストは、さまざまな町や島、色々なコミュニティで、一年中催されています。

ミス&ミスター・パペーテ、ミス・ドラゴン(中国系コミュニティが主催)、ミス・ヘイヴァ(ポリネシア文化の象徴)、ミス・ポパア(外国人のコンテスト)、ミス・ヴァヒネタネ(女装した男性、いわゆるドラァグクイーンのコンテストで、ゲイ(ラエラエ)のコミュニティが主催)、ミス・ロンデ、ミスNRJなど、多数あります。

華やかな夜のイベント

ミス・タヒチのコンテストの時期になると、あらゆる選考をくぐり抜けたミスとミスターの最終候補が選出されます。毎年6月末に行われるグランドフィナーレでは、ミス・タヒチ実行委員会がテーマ(夢、野性美など)を設けます。厳しい審査を通過した10名前後の候補者が、伝統衣装(天然の繊維で仕立てた服)に身を包み、パレードを行います。それから水着やイブニングドレスに着替えて競い、最終的に4名のファイナリストまで絞りこまれます。この4名は、それぞれの魅力・人となりをアピールするとともに、ときに想定外の質問に答えなければなりません。会場は熱気に包まれ、観るものすべてを魅了します。

ミス・コンテストの歴史

当初、ミス・タヒチのコンテンストは、今はもうないホテル・タヒチで開催されていました。当時から、候補者の応援に多くの観客が集まったものです。コンテストの人気が高まるにつれて、より多くの観客を収容できるように開催場所がパペーテに移され、トアタ広場やパペーテ市庁舎の庭園で行われるようになりました。すべてのポリネシア人にとって、ミス・タヒチのコンテンストを観るのは、会場に行くにしても、テレビで観るにしても、欠かせない楽しみの一つです。

いざミス・タヒチが決まると、ポリネシアの人々は団結して、続くミス・フランス・コンテストでミス・タヒチを全面的に支持します。2013年のミス・フランス・コンテストは、ミス・タヒチのメヒアタ・リアリアさんがポリネシアからの圧倒的な支持を受けましたが、ポリネシアからの票数が正確にカウントされず議論を呼びました。結果的に、ミス・タヒチはミス・フランスの栄冠を逃し、準ミスに終わっています。

注目を浴びるミス・タヒチ

これまでにミス・フランスに輝いた4人のミス・タヒチを振り返ってみましょう。

- エドナ・テパバ(1974)

エドナは、1991年のミス・フランス、マレーヴァ・ジョルジュの叔母にあたります。エドナは、ミス・フランスの地位にある1年間を待たずして、タヒチに帰りました。

- シルダ・フレール(1980)

シルダは、ポリネシアを離れたくなかったため、ミス・フランスの栄冠に輝いたわずか4日後に在位を退いて準ミスに譲りました。彼女は教師になり、後にポリネシアの独立を主張する政党、フェイタ・アピ(Feita Api)の党首になっています。

- マレーヴァ・ジョルジュ(1991)

マレーヴァは、米国のテレビ放送でボードスポーツ関連番組の司会を務めた後、ミス・タヒチ実行委員会の議長に就任しています。

- マレーヴァ・ギャランテール(1999)

マレーヴァは、ショービジネスの世界に入り、ドラマの女優やテレビ番組の司会として活躍しました。

ミス・フランスで上位に選ばれたミス・タヒチは、下記のように少なくありません。

1971年の2位、ジェンヌ・ブルン

1975年の3位、ミラ・ヴァヒアツア

1977年の3位、パトリシア・セルヴォンナ

1989年の4位、テウメレ・パテル

1998年の4位、ヒナノ・テアノトガ

2013年の2位、ヒナラニ・ド・ロンジョ

2014年の2位、マヒアタ・リアリア

フランス代表としてミス・ユニバース・コンテストに出たミス・タヒチもいます。1991年のマレーヴァ・ジョルジュは10位、1999年のマレーヴァ・ギャランテールは14位、2014年のヒナラニ・ド・ロンジョは18位でした。

 

 

 

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